遺伝子記号の表記方法を知ろう!
進化分野は遺伝学と強く結びついており、遺伝学とショウジョウバエの結びつきも強固です。したがって、進化や遺伝の勉強をはじめると、ショウジョウバエの論文に行き着くことが多々あります。また、ショウジョウバエはモデル生物とて広く利用されています。そのため、生物学を専攻していれば、いつかはショウジョウバエの論文を読む機会が訪れるでしょう。
さて、はじめてショウジョウバエの論文を読むとき、むずかしく感じるのは遺伝子記号です。ここでは、ショウジョウバエの遺伝学における、遺伝子記号の表記方法を丁寧に解説していきます(遺伝子型や遺伝子記号の表記方法は生物ごとに異なるので注意しましょう)。表記方法の法則さえ知ってしまえば、むずかしそうに見えた遺伝子記号が、とても便利なものであることに気づきます。慣れてくれば、遺伝子記号だらけの交配図を見ただけで、実験内容が大まかにわかります。こうしたわかりやすさは、みんなが共通の表記方法を使うことで実現しています。培われたメリットを生かしていくためにも、正しい表記を心がけましょう。
遺伝子名
生き物の色や形が変化したような、目視で判別できる突然変異を可視突然変異と呼びます。可視突然変異は世代を超えて目視で追跡できたので、遺伝の法則の発見、遺伝学の発展に貢献しました。これらの質的変異は追跡の目印になるので、可視マーカー、あるいは単にマーカーと呼ばれます。
キイロショウジョウバエで最初に発見された可視突然変異体は白眼です。白眼の原因遺伝子は white と命名されました。このように、古典遺伝学における遺伝子名は、その遺伝子の機能が壊れた状態を見て命名されています。ですから、white は本来、眼を赤くする機能を持っているといえます。
遺伝子名はイタリック体か斜体で表記し、活字英文中で容易に識別できるようにします。遺伝子名の頭文字は、命名の由来となった形質が(野生型に対して)優性の場合に大文字、(野生型に対して)劣性の場合に小文字で表記します。遺伝子記号は遺伝子名を略したアルファベットで表記し、頭文字の大小も継承します。遺伝子名と同様に、遺伝子記号もイタリック体か斜体で表記します。例えば白眼は(野生型の)赤眼に対して劣性ですので、white の遺伝子記号は w です。遺伝子記号の綴りが同じでも、頭文字の大文字と小文字で遺伝子座が区別されます。例えば、Pr と pr はそれぞれ、Prickly と purple という別の遺伝子座です。他にも、B と b などがあります。
ショウジョウバエ遺伝学の黎明期に発見された、特徴的な突然変異には少ない文字数の遺伝子記号が当てられています。短い記号は重要な変異のために温存し、不用意な命名で消耗しないように心がけます。下表では、代表的な遺伝子を紹介しています。慣れてくればマーカーを見ただけで、第何染色体を話題にしているのか判断できるようになります。
遺伝子名 | 遺伝子記号 | 成虫の形質 | 染色体 |
yellow | y | 体色が黄色くなる(黄体色) | 1 |
white | w | 複眼が白くなる(白眼) | 1 |
forked | f | 剛毛が縮れる | 1 |
Bar | B | 複眼が細くなる(棒眼)、ホモ接合体はより細い | 1 |
Star | S | 複眼がザラザラでやや小さい、劣性致死 | 2 |
Curly | Cy | 翅がカールする(曲翅)、ほぼ劣性致死 | 2 |
dumpy | dp | 胸部背板や翅の変形→対立遺伝子により表現型多様 | 2 |
Bristle | Bl | 剛毛は短くゴツゴツ、複眼は少し粗面、ほぼ劣性致死 | 2 |
black | b | 体色が暗くなる、e よりは明るい | 2 |
cinnabar | cn | 複眼が蛍光オレンジ色(朱色眼、朱眼、辰砂眼) | 2 |
vestigial | vg | 翅がとても小さくなる(痕跡翅) | 2 |
brown | bw | 複眼が紫茶色になる(茶色眼、茶眼、褐色眼) | 2 |
Plum | Pm, bwV1 | 複眼が紫茶色になる、逆位の位置効果で優性のbw | 2 |
sepia | se | 複眼がセピア色になる | 3 |
Stubble | Sb | 剛毛は短い直毛、後小楯板剛毛は交差しない Sb1とSbVのみ劣性致死 |
3 |
Ultrabithorax | Ubx | 平均棍肥大→対立遺伝子により表現型多様、劣性致死 | 3 |
ebony | e | 体色が黒くなる、ヘテロ接合体もうっすら暗色 | 3 |
Tubby | Tb | 幼虫・蛹・成虫の体は短太、ホモ接合体でも同程度 | 3 |
Serrate | Ser, BdS | 翅先が欠ける、ホモ接合体は翅縁がボロボロに欠ける | 3 |
成虫の形質欄にある( )は、古い教科書などで用いられた表現型呼称。 おもに Lindsley & Zimm (1992) を参照。 ※2017-2018年頃から、FlyBase上で一部の遺伝子記号が変更されています。 例えば Cy が DuoxCy に、dp が dpy になっています。 このような変更の賛否は別として、初学者のうちは混乱するかもしれませんから、 詳しい先輩・教員に確認したり、赤本(Lindsley & Zimm (1992))にあたりましょう。 |
対立遺伝子
同じ遺伝子でも、対立遺伝子(allele アリル)によって表現型が変わります。white を例に話を進めましょう。白眼になる壊れた対立遺伝子は、遺伝子記号そのままに w で表します。(欠失によってその遺伝子が壊れたりなくなっている場合は、肩付き文字でマイナスを書いて w- と表記します。文脈から、話題にしている遺伝子座が明らかな場合は、単に - と書くこともできます。)赤眼になる野生型の対立遺伝子は、プラスを肩付き文字にして w+ あるいは単に + と表記します。対立遺伝子の記号と / を組み合わせて、遺伝子型を記述できます(詳しくは「交配の表記法」を御覧ください)。表現型を表記する場合はそのまま white と書けばいいのですが、日本ではより簡易な方法として [ ] で遺伝子記号を括ったかたちも採られます。遺伝子型に表現型を併記するときは、区別しやすく便利です。白眼の表現型を例示すると white [white eye] [w] などです。赤眼の表現型は wild type [wild type] [w+] [+] などと表記します。下記は使用例です。
w/w [w] ...♀
w/+ [+] ...♀
+/+ [+] ...♀
w/Y [w] ...♂
大文字の Y はY染色体を意味し、雄個体になります(詳しくは「核型と性差」を御覧ください)。Y染色体にはほとんど遺伝子が乗っていないので、ここでは w- と見なせます。遺伝子型が同じなら、表現型も同じになります。しかし、表現型が同じでも、遺伝子型は異なることがあります。実験の際は表現型しか見えないので、注意が必要です。
white の対立遺伝子は、白眼と赤眼だけではありません。色々な中間色が発見されています。例えば wa は、ピンク眼になります(a=apricot)。肩付き文字の対立遺伝子名は、特徴を表した単語を当てたり、発見、記載された順番に 1, 2, 3, ... としていく方法があります。実験中によくお目にかかる例として、yelow の y1 と y2 が挙げられます。最初に見つかった y1 は体色や剛毛が明るい黄色になり、次に見つかった y2 は体色が黄色味がかるものの剛毛は黒っぽいです。なお、対立遺伝子間の微妙な違いにこだわらないときは、単に y で代用することがあります。対立遺伝子名は、発見者名や発見年月日を組み合わせて命名することもあります。例えば、Aさんが1961年の3月に xyz という遺伝子の新しい対立遺伝子を発見したとすると、xyzA61 xyz61c xyz61cA などになります(a=January, b=February, c=March, ...)。また、xyz* のようにアスタリスクが付記されている場合、対立遺伝子不明を表わます。
対立遺伝子によっては優性と劣性が変化する場合もあります。たとえば、眼色を暗くする bw の対立遺伝子はほとんどが劣性ですが、bwV1 は優性です。なお、書式情報を扱えない環境では斜体や肩付き文字を用いて wa のように表記することはできませんから、w[a] で代用します。
補足:伝統的に用いられてきた野生型の系統(標準野生型系統)として、アメリカ合衆国で採集された Oregon-R や Canton-S があります。これらはそれぞれ OR や CS と略記されていることがあります。ORやCSは遺伝子記号ではなく、系統名であることに注意してください。また、ORやCSを見かけたら、+/+ [+] と読み替えてみましょう*。通常の交配実験ではこれらの標準野生型系統を用い、特別な目的がない限りは自分で採集してきた野外由来の個体および系統を野生型として利用することはありません。なぜなら、野外由来のハエには未知の変異が存在し、それが実験結果に影響する可能性があるからです。
劣性致死変異
劣性致死変異(recessive lethal mutations)は、lethal の頭文字をとって、単に l と表記します。劣性致死変異とひとくくりにしていますが、その実体は点突然変異や微小な欠失など多様な原因が考えられ、関与する遺伝子座も様々です。過去には、ある程度マッピングされたものに関して規則的に命名した例があります(Lindsley & Zimm 1992 pp. 303-417)。仮想的な例を挙げるなら、第二染色体地図上の21Aにマッピングされたものを、遺伝子座ごとに l(2)21Aa, l(2)21Ab, l(2)21Ac, ... と命名し、それぞれの対立遺伝子ごとに l(2)21Aa1, l(2)21Aa2, l(2)21Aa3, ... などと命名していきます。なお、優性致死変異は出現するとすぐに死んでしまい、後代に受け継がれることがありません。したがって、特別な実験でない限りお目にかかることはありません。
参考文献
Lindsley & Zimm 1992. The genome of Drosophila melanogaster (1ed). Academic Press, Inc.
修飾因子(抑制因子 増強因子)
ここでは、質的変異の表現型に変化を加える変異である、修飾因子(変更遺伝子, modifier)を紹介します。形質の強弱という尺度で扱える修飾因子に限っては、後述のように法則性のある命名がされています。
抑制因子(まれに抑圧因子, サプレッサー, suppressor, 因子が遺伝子と書いてあることもある。ここでは古典遺伝学の文脈で登場する概念を扱う。マーカーとは別の遺伝子座に起こった突然変異を想像してもらうとわかりやすい。)は、可視突然変異の表現型を野生型に近づける変異です。例えば、Cy の翅の曲がり具合をゆるめ、まっすぐに近づけるもの(Suppressor of Curly, suppressor of Curly)は下記のように表記します。
Su(Cy) 優性
su(Cy) 劣性
促進因子*(増強因子, まれに増進因子, エンハンサー, enhancer, 因子が遺伝子と書いてあることもある。分子生物学の文脈で登場する遺伝子発現調節領域とは別の概念。ここでは、マーカーとは別の遺伝子座に起こった突然変異を想像してもらうとわかりやすい。)は、可視突然変異の表現型をより厳しくする変異です。例えば、S の複眼をよりザラザラでより小さくするもの(Enhancer of Star, enhancer of Star)は下記のように表記します。
E(S) 優性
e(S) 劣性
(*抑制の対義語なら促進かもしれませんが、語感や好みは個人差があります。「modifier = 修飾因子」と「suppressor = 抑制因子」という和訳は散見され多数派にみえますが、「古典遺伝学における enhancer」の和訳として安定したものを見出すことはできません。古い和文ですと、千野と吉川(1934)においてすでに修飾因子と抑制因子が登場しますが、enhancer だけは言及されていません。遺伝学用語辞典第6版では、分子生物学の enhancer しか登場しません。ショウジョウバエの遺伝屋にとっては、遺伝的背景によって可視マーカーの表現が厳しくなることは日常的なできごとです。鑑賞動植物の育種家には、enhancer の集積に情熱をそそぐ方も多いでしょう。このように「古典遺伝学における enhancer」は身近な存在ながら、和文中での扱いは希薄なようです。そのままエンハンサーと呼んでしまうのも一法ですが、修飾因子や抑制因子という和訳があるのに enhancer だけカタカナ語というのも奇妙です。これらの用語は「質的変異の固定とその修飾」という文脈で、形態進化の分野における重要度が将来増してくる概念と思われます。よって、enhancer の和訳だけ不在というのは看過できないと考え、促進因子や増強因子を挙げてみました。)
参考文献
千野光茂 吉川秀男 1934. 猩々蝿の遺傳と實驗法. 養賢堂
Lindsley & Zimm 1992. The genome of Drosophila melanogaster (1ed). Academic Press, Inc.
遺伝子間相互作用
可視マーカーのなかには、互いの形質に影響をあたえるものがあります。有名な例として、朱眼の原因となる cn と、茶眼の原因となる bw を組み合わせた場合があります。二重変異体の cn bw を作出すると、表現型は白眼になります。おさらいのために、遺伝子型と表現型の対応を書き出すと下記のとおりです。
+/+ [+] ...[赤眼]
cn/+ [+] ...[赤眼]
cn/cn [cn] ...[朱眼]
bw/+ [+] ...[赤眼]
bw/bw [bw] ...[茶眼]
cn bw/+ + [+] ...[赤眼]
cn +/+ bw [+] ...[赤眼]
cn bw/cn bw [cn bw] または [white eye] ...[白眼]
この例では、3つの表現型 朱眼 茶眼 白眼 が互いに区別できるので、問題は起こりません。しかし、ハエをカウントする交配実験を行うときは、同じ器官の可視マーカーをできるだけ避けたほうが良いでしょう。また、似た表現型のマーカーも組み合わせるのを避けましょう。どちらなのか、区別がつかなくなります。くわえて、二重変異体になると生存力が低下する組み合わせも、分離比を扱う実験では避けるべきでしょう。
おもしろい変異として、Killer of prune が知られています。これは [pn] 個体においてのみ、優性致死となります(現在では awd の対立遺伝子であることが判明し、awdK と表記されています)。