バランサー染色体




バランサー染色体は重要なツール


キイロショウジョウバエの遺伝学を勉強していると、バランサー染色体(balancer chromosome)という特殊な染色体が登場します。バランサー染色体は遺伝的組換えを抑制できる染色体で、交配実験の幅を広げる重要な遺伝学的ツールです。このツールがあったからこそ、ショウジョウバエの遺伝学は今日ほどの発展をみたといっても過言ではありません。例えば、注目した染色体を組換えを起こさずに追跡したり、ホモ接合にすることができます。バランサー染色体は優性可視突然変異をマーカーとしてもち、識別容易です(第一染色体なら B、第二染色体なら Cy、第三染色体なら Sb などが乗っています)。くわえて、一般的にバランサー染色体はホモ接合で致死です。このため、劣性致死変異や劣性不妊変異といった、系統保存が難しい突然変異体を毎世代の選抜を行なわずに維持できます(平衡致死, balanced lethal)。バランサー染色体の原理は、マラーのラチェット(Muller's ratchet)で知られる Hermann Joseph Muller によって発案され(Muller 1918, (2) The balancing lethal. p. 467 を参照)、彼の名を冠した染色体(Basc = Muller-5)は現在でも利用されています。

参考文献
Muller 1918. Genetic variability, twin hybrids and constant hybrids, in a case of balanced lethal factors. Genetics 3:422-499.



逆位は組換えを抑制する


染色体逆位は組換えを抑制します。これは逆位内部で乗換えが起こると、巨大な欠失や重複が起こり、配偶子になれなかったり致死になるためと言われています。よって、染色体の全長にわたってたくさんの逆位が乗っていれば(複合逆位)、その染色体には組換えがほとんど起こらなくなります。この複合逆位を利用したのがバランサー染色体なのです。



バランサー染色体の作出


バランサー染色体の単純な作出過程は、優性可視マーカーとシンプルな逆位を乗せた染色体を用意し、この染色体を持った系統にX線を照射してさらなる逆位を誘発し、複雑な複合逆位染色体に仕上げていくというものです。では、具体例を見てみましょう。

むかしむかし、野生型系統の中に翅の異常な個体が見つかりました。これが Cy の発見でした(Ward 1923)。この「Curly染色体」は、なぜか組換えを抑制しました。後に、この染色体には In(2L)Cy と In(2R)Cy という二つの逆位が乗っていることがわかりました。この二つの偏動原体逆位は、それぞれ第二染色体の左腕中央と右腕中央に位置します。これらの逆位が、セントロメアやテロメアから遠い組換えが起こりやすい領域を覆っていたためか、このCurly染色体 (= In(2L)Cy + In(2R)Cy)の組換え抑制効果はなかなかのものでした。しかしまれに、組換えによって In(2L)Cy と In(2R)Cy が別れてしまったりと、まだ完璧ではありませんでした。

後年、In(2L)Cy + In(2R)Cy にX線を照射して、染色体全長にわたる巨大な逆位の誘発に成功しました。 これが In(2LR)SM1 でした。バランサー染色体は愛称のみで表記することが多いので、一般には SM1 の名で通っています。これは優秀なバランサー染色体で、経験的に組換えをほぼ完全に抑制します。複雑な複合逆位の構造は、唾腺染色体のバンドの順番を書き出したもの(new order)を参照するとわかりやすいです。SM1 の new order は、21A — 22A3|60B — 58B1|42A3 — 58A4|42A2 — 34A1|22D2 — 33F5|22D1 — 22B1|60C — 60F です。この場合、第二染色体の左端から22A3までは正常に存在し、22A3の次には60Bが隣接していることを表しています。SM1 と同様にして、In(2L)Cy + In(2R)Cy にX線を照射して、In(2L)Cy と In(2R)Cy を分断するように挟動原体逆位を誘発したのが In(2LR)O でした。これは SM1 と双璧をなすバランサー染色体として、CyO の名で通っています。なぜかよく普及しており、目にする機会は多いでしょう。


Table 1.2 バランサー染色体一覧
染色体 通称 コメント
1 ClB 1928年以前にMullerが作出した、最古のバランサー染色体。劣性致死。Crossing over suppressor, lethal, Bar の頭文字をとっている(向井 1978 p177)。組換え抑制は不完全で、現在ではあまり利用されない。マーカーは sc t2 v sl B
1 Basc = Muller-5 元来劣性致死および劣性不妊変異をもたず、ホモ接合で系統維持可能。XO♂は低生存力。基本的なマーカーは wa By をもつものを Bascy という。B をもたないものを asc という。なお、B は不等乗換えで復帰突然変異を起こすことがあり、遺伝的組換えが抑制されていない系統は、年に一回ほど棒眼個体を選抜するメンテナンスを行う必要がある。※マーカーの表現型について:Bはホモ接合でより形質が強まるので、たいていは B/BB/+ を見分けられる。
1 FM1 FMシリーズの原型であり、In(1)sc8 + In(1)dl-49In(1)sc8 は In(1)1B2-3;20F であり、いちおう染色体全長にわたる逆位で、sc の表現型は弱い。In(1)delta-49 は In(1)4D7-E1;11F2-4。X染色体では偏動原体逆位が利用される。劣性致死を持たないが、lzs による雌不妊で、マーカーは y31d sc8 wa Blzs を失い v m f をもつものは FM0 という。
1 FM3 1954年にGrellが作出。In(1)sc8 + In(1)dl-49 にX線を照射して作出された、複雑な複合逆位で、効果的なバランサー染色体と言われている。劣性致死のため、劣性雌不妊変異の系統維持に活用される。マーカーはy31d sc8 dm B
1 FM6 劣性雌不妊。マーカーはy31d sc8 dm Bw dm+をもつタイプあり。
1 FM7 現在最も普及している、第一染色体のバランサーの総称。In(1)sc8 + In(1)dl-49 にX線を照射して小さな逆位を追加しただけの FM4 はイマイチだった(1954年にGrellが作出)。そこで、これにさらなるX線照射をおこなって作出した FM6 はまあまあの性能だった(1955年9月にGrellが作出)。さらに、FM6 と In(1)sc8 + In(1)dl-49 の組換えによって得られた新しい複合逆位が FM7(これが現在 FM7a とされるバランサー)である(Merriam 1968)。ブレイクポイントは FM6 より少ない。FM4 および FM6 の系列が基本的に dm による劣性雌不妊である一方で、FM7a は元来劣性致死および劣性不妊を持たず、劣性致死変異のスクリーニングには利用できないとされる。マーカーはy31d sc8 wa B。そこで、FM7a と In(1)dl-49, lzs の組換えによって劣性雌不妊変異を導入したのが、FM7b である。Merriam and Duffy (1972)は FM7b/Y♂ の生存力が小さい(あるいは、発生が遅い:Ashburner, Golic and Hawley 2005)として、この問題を改善するために劣性雌不妊変異として lzs のかわりに snX2 が乗っているものを発表した。これが FM7c である。その後、Heitzler (1997)は [sn]♂ がエサにトラップされやすいとして、この問題を改善するために劣性雌不妊変異を snX2 から oc1 に置換したものなどを、FM7d, FM7e, FM7f, FM7g, FM7h, FM7i, FM7j などとして紹介した。
2 SM1 1953年にGrellが作出。SMシリーズの記念すべき第一作。第二染色体の全長にわたって組換えを抑制できる、優秀なバランサー染色体。Curly の浸透度は完璧で、強度もたいていの遺伝的背景で良好。生存力と妊性が共に優れる。検鏡でのソーティングもしやすく、使いやすいマーカー。マーカーは al2 Cy cn2 sp2
2 SM5 1953年にGrellが作出。SM1 にさらなる逆位を誘発し、構造を複雑にしたもの。赤本には "Most complete balancer for chromosome 2." とある。重複が二箇所見つかっている。Curly の強度や健康面で SM1 にやや劣るとされることもあるが、はっきりしたことはわからない。マーカーは al2 Cy ltv cn2 sp2
2 SM6 1984年以前にCraymerが作出。SM1 と CyO を合成した、複雑な構造を持つ複合逆位。基本的なマーカーは al2 Cy dplvI cn2P sp2Roi をもたないものを SM6aRoi をもつものをSM6b という。
2 CyO 1956年以前にOsterが作出し、作出者の頭文字をとって In(2LR)O と表記したり、Curly of Oster ともよばれる。染色体中央部はブレイクポイントがまんべんなく分布しており、安心感がある。一方で、染色体の両端は逆位がなく、ちょっと不安である。にも関わらず、よく普及している。SM1 と双璧をなすバランサー染色体と位置づけられるだろう。マーカーは Cy dplvI pr cn2。複眼をザラザラにする優性マーカーをもたせた CyO-CR2 は、Cy がソーティングできないときの保険として便利である。
2 Pm 1929年以前にMullerによって作出か。SM1 と組み合わせて、Cy/Pm のかたちで活用されることが多い。染色体の全長にわたる巨大な逆位があり、その長さは第二染色体のバランサー染色体のなかでは最長。しかし、左腕にブレイクポイントが少ないのが残念である。Plum はハエが汚れても判別でき、目立つ形質のためにソーティングの効率もよく、強度・浸透度共にも優れたマーカー。この表現型は bw の位置効果(position effect)によって発現している。よって、bwV1 と表記してある場合もある。つまり、PmbwV1、あるいは In(2LR)PmIn(2LR)bwV1 はsynonymである。ごくまれに明るい眼色になるが、まだら模様なので判別可能。基本的なマーカーは Pm ds33k で、ほかに dp bMukai 1964)が乗っていることがある。
2 Gla 初出典はAlexander 1952か。In(2L)t 派生の珍しいバランサー染色体。染色体の右端に逆位がないので、左腕から動原体にかけての用途に限られそう。Glazed は強度・浸透度共に優れて安定感があり、ソーティングもしやすく、極めて優秀なマーカーである(wgGla-1 のsynonym)。基本的なマーカーは Gla のみであるが、In(2LR)Gla/cn のときマルピーギ管がオレンジ色になる。※In(2L)t は野外集団中に多型として存在する。
3 CxD 1933年以前にOliverが作出か。かつては広く利用されていたらしい。まれに目にするバランサー。構造は In(3L)69D3-E1;70C13-D1 + In(3LR)71F;85C + In(3LR)80;84A;93F であり、スキがある。マーカーは In(3L)D, D1
3 TM3 1955年7月にLewisが作出(Lewisはこれ以前にも TM1TM2 を作出しているが、組換え抑制が完璧ではなかった。TM1, TM2, TM3 は互いに独立の、構造の異なる複合逆位である。)。現在もっとも普及しており、ダブルバランサーなどを行なわない限りは、第三染色体全長にわたって組換えを抑制できる(左端のみ不安)。優性マーカーとして SbSer をもつが、あったりなかったりする...。そのほか y+ ri pp sep bx34e=Ubxbx-34e e などをもつ。X染色体の断片(1A1-8)をもつので y+ が乗っている。しかししばしば、y+ や Ser がなくなっている。そのうえ、Ser の強度は遺伝的背景によって影響されやすく、見にくい場合がある。強度が小さいと浸透度も小さくなり、使いづらいマーカーである。くわえて、特定のマーカー(たとえば H )と Ser を組み合わせると、Ser+ に見えることがある。いっぽうで、Sb は浸透度良好で使いやすいマーカーであり、蛹の殻の外から判別可能なのはありがたい。※マーカーの表現型について:Ser は劣性致死ではないことに注意、ホモ接合では翅端の欠けが強まりボロボロになる。
3 TM6 1966年9月にLewisとBacherが作出。まあまあ普及している。TM3 とは独立の、構造の異なる複合逆位。よって、TM3/TM6 は生存し、この遺伝子型では Ubx の表現型が強まる。構造を見る限り難は無さそうだが、組換え抑制の程度について詳しい情報がほしい。優性マーカとして UbxP15 をもつ。平均棍は小さな器官で観察しにくく、Ubx で大量のソーティングをこなすのは激務。そのほか HnP ssaP88 bx34e=Ubxbx-34e e などをもつ。ss 周辺にキズがある。
3 TM6B 1984年以前にCraymerが作出。効果的なバランサーと信じられており、赤本には "Probably most efficient balancer of chromosome 3." とある。優性マーカーとしてたいてい Tb をもち(まれにD3)、劣性マーカーとして e をもつ。そのほか ca h HnP などをもつことがあるらしい。TM6 とは一部の逆位が差し替えられており、構造の異なる複合逆位。それゆえ、マーカーの違いしかないようにみえる小文字表記(TM6b)では不適切なのかもしれない。同時期の作出に、TM6B よりも逆位(In(3R)Hu)がひとつ少なく非劣性致死の TM6C がある。 ※マーカーの表現型について:e はヘテロ接合でもうっすら体色が暗い。HnP はヘテロ接合でRK3、ホモ接合でRK1(Craymer 1980 pp197-200)。※TM6シリーズがもつ In(3L)P は野外集団中に多型として存在する。

マーカーは代表的なものを挙げた。同じ通称でも、乗っているマーカーが異なる場合がある。これらの派生してきた経緯については、記録がほとんどない。めったに使わない複合逆位は、とりあげなかった。筆者の所感および個別に文献をあげた部分以外は、Lindsley and Zimm (1992)とAshburner, Golic and Hawley (2005)の情報をすりあわせながら作成。



使用上の注意


バランサー染色体を入手したら、はじめに優性マーカーを確認します。ラベルに書いてあるのに、検鏡してみるとなかったり、その逆にラベルに書き漏らされたマーカーが乗っていることもあります。特に、ラベルに愛称しか表記がないときには検鏡せざるをえません(例えば、TM3, Sb1 Ser1 が単に TM3 とだけ書いてある場合)。マーカーを確認するとき、数頭を観察して安心してはいけません(Basc と asc が多型状態になっていたことがありました)。また、実験の性質によっては、バランサー染色体に蓄積した有害変異の影響に注意しましょう(Araye and Sawamura 2013)。

経験的に、「ダブルバランサーは避けよ、トリプルバランサーはやるな。」といわれます(ダブルバランサーとは、第一・第二・第三染色体のどれか二つにバランサー染色体をもつ状態のことです。ちなみに Cy/Pm, CyO/Gla, TM3/TM6 などは、ひとつの染色体しか組換え抑制状態に置かれていないので、ダブルバランサーとは言いません。トリプルバランサーとは、第一・第二・第三染色体の全てにバランサー染色体をもつ状態のことです。)。遺伝学者の間でタブー視される理由は、組換え抑制が不完全になること、つまりバランサー染色体たる意義が失われることにあります。くわえて、劣性致死による分離の荷重も大きくなり、系統維持が難しくなります。その他いろいろな懸念があるため、禁じ手となっているのです。



参考文献
Ward 1923. The genetics of Curly wing in Drosophila. Another case of balanced lethal factors. Genetics 8:276-300.
Ashburner, Golic and Hawley 2005. Drosophila a laboratory handbook (2ed). CSHL Press.
Lindsley and Zimm 1992. The genome of Drosophila melanogaster (1ed). Academic Press, Inc.
Araye and Sawamura 2013. Genetic decay of balancer chromosomes in Drosophila melanogaster. Fly 7(3):184-186.